久留米藩主 有馬家の歴史

久留米藩初代藩主 有馬 豊氏(ありま とようじ)

時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期

生誕 永禄12年5月3日(1569年5月18日)

死没 寛永19年閏9月29日(1642年11月21日)

 

有馬 豊氏(ありま とようじ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。丹波国福知山藩主、のち筑後国久留米藩の初代藩主。久留米藩有馬家2代。

 

生涯

永禄12年(1569年)、摂津有馬氏の一族である有馬則頼の次男として播磨国三木の三津田城にて誕生した。摂津有馬氏は、赤松氏の庶流で有馬赤松家ともいい、室町時代に摂津国有馬郡を本拠としたことから有馬を苗字とした一族である。豊氏の家はこの摂津有馬氏の一族で、祖父である有馬重則が三木に進出した。また、重則の正室は室町幕府管領の細川京兆家の出身であり、豊氏は細川澄元の孫にあたるという名門の血筋である。

 

豊氏は、少壮より父に従って各地を転戦したが、有馬家には兄で次期当主・則氏がいたので、姉婿にあたる大名・渡瀬繁詮に仕え、家老を務めた。天正20年(1592年)の豊臣氏による朝鮮出兵に際しては、兵200を率いて名護屋城に参陣している。

 

文禄4年(1595年)、渡瀬繁詮が秀次事件に連座して改易されたうえに切腹させられると、豊臣秀吉の命によりその所領と家臣を全て引き継ぎ、遠江国横須賀3万石の大名として秀吉に仕えることとなった。

 

徳川時代

秀吉死後は、父の則頼と共に徳川家康に接近し、慶長4年(1599年)正月には家康の命により淀城の守備に当たっている。徳川家の御伽衆として遇され、慶長5年(1600年)6月には家康の養女・連姫(蓮姫)を娶った。

 

同年9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、美濃国岐阜城攻めや関ヶ原本戦で後ろ備えを務めた。有馬父子の功績に対して同年12月、家康は、父・則頼には有馬家の発祥地である有馬郡三田2万石の知行を許し、豊氏を山陰の丹波福知山6万石に加増のうえ転封とした。直後の慶長7年(1602年)に父が死去すると、その遺領・三田2万石も継承し、8万石の大名となった。豊氏は初代福知山藩主として福知山の町を築いたことで知られる。

 

慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても徳川方として参戦して功を挙げた[3]。

 

元和6年(1620年)12月8日、筑後久留米に21万石に加増転封され、国持ち大名となった。元和7年(1621年)3月18日、久留米に入部した。前藩主・田中氏の統治の際に、支城の一つであった久留米城は一国一城令により破却されており、豊氏は久留米城の修築や城下町の整備を進めながら領国経営を開始する。久留米城修築に際しては、榎津城・福島城など廃城の資材が転用された。また、同年には、丹波福知山の瑞巌寺を久留米に移し、梅林寺を建立している。

 

寛永14年(1637年)11月に島原の乱が勃発すると、豊氏は当時江戸にあり、老齢であったが自ら島原まで出陣している[3]。島原の乱では久留米藩から6,300余人が出陣しており、戦死173人、手負い1412人を出している。

 

寛永19年(1642年)閏9月29日、74歳で死去。跡を長男・忠頼が継いだ。豊氏の死後、近侍の2名が殉死しており、のちに豊氏の廟の傍らに葬られている。明治10年に篠山神社が創建されると、豊氏も祀られた。

 

年譜

※日付=明治4年までは旧暦

文禄3年(1594年)6月、従五位下玄蕃頭に叙任。

文禄4年(1595年)、豊臣秀吉に仕え、3,000石。

8月、遠江国横須賀の地に3万石。

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉薨去後、徳川家康に組し、徳川家の御伽衆となる。

慶長5年(1600年)

6月、徳川家康の養女連姫と婚姻。関ヶ原の戦いでは東軍に従軍。

12月13日、丹波国福知山で6万石。

慶長7年(1602年)8月以降、父則頼の遺領であった摂津国三田2万石を継承し、合計8万石。

元和6年(1620年)閏12月8日、筑後国久留米に転封し、21万石となる。

寛永3年(1626年)8月19日、従四位下に昇叙し、玄蕃頭如元。

寛永11年(1634年)7月16日、侍従兼任。

寛永19年(1642年)閏9月29日、卒去。享年74。法号:春林院殿如夢道長大居士。

大正5年(1916年)11月15日、政府より贈従三位。

人物・逸話

茶道も嗜む文化人で、利休七哲の一人に数えられることもある。

若年の頃から深く禅に帰依し、かたわら儒学を学んだとされる。質素な逸話が残されているという。

本願寺の東西分裂に対して、東西両派のどちらにつくかは門徒の自由としていたが、晩年の寛永14年(1637年)、東本願寺派の排斥に転じた。これは、幕府有力者から藩内門徒の東本願寺帰属が要請された際、藩政への介入とみて強く反発したものとされる。なお、2代藩主・忠頼は逆に西本願寺を排斥している。

豊氏は築城・土木に詳しかったとされ、慶長11年には江戸城本丸の普請、慶長12年(1607年)には駿府城の建築、慶長16年(1611年)には禁裏の造営、元和4年(1618年)には大坂城の修繕工事にあたっている。一方でこれらは藩財政を圧迫した。久留米入部後も、城と城下町の建設に加えて島原の乱の負担が重なり、下記のような増徴を図る一方で、領民の人心掌握に腐心している。

久留米藩では増徴のため、年貢徴収の基準として拝領高の1.5倍にあたる32万石を「内検高」として設定した。同様の政策を横須賀や福知山でも行っており、「玄蕃高」と酷評されたという。

姉婿の家老から21万石の大名まで躍進した豊氏であったが、同時に多様な出自を持つ家臣団を持つこととなった。渡瀬家から引き継いだ「横須賀衆」、父の三田藩から引き継いだ「梅林公御代衆」、豊氏が福知山で召し抱えた「丹波衆」、そして久留米で新たに召し抱えた家臣などである。これらの派閥は、後年に至るまで久留米藩の政争に影響を及ぼすことになった。

 


久留米藩二代藩主 有馬 忠頼(ありま ただより)

時代 江戸時代前期

生誕 慶長8年(1603年)

死没 承応4年3月20日(1655年4月26日)

 

有馬 忠頼(ありま ただより)は、筑後久留米藩の第2代藩主。久留米藩有馬家3代。

 

経歴

慶長8年(1603年)、初代久留米藩主(当時は丹波福知山藩主)有馬豊氏の次男として生まれる。慶長18年(1613年)、江戸城で元服し、将軍・徳川秀忠から偏諱を与えられて忠郷と名乗った(のちに忠頼と改名する)。このときに従四位下、中務大輔に叙任されている。寛永14年(1637年)には父に従って島原の乱にも参加した。寛永19年(1642年)の父の死去により家督を継ぐ。

 

藩政においては寛永20年(1643年)から生葉郡星野村の金山開発を行い、さらに外国船の到来などに備えて水軍を創設し、治水工事を行い、学問を奨励するなどして藩政の基礎固めに務めた。

 

しかし性格に粗暴かつ冷酷な一面があり、その面での逸話も事欠かない。例えば西本願寺の宗徒があるとき、忠頼に対して無礼なことをした。すると忠頼は領内における寺社に対して西本願寺から東本願寺への転派を強要し、それに従わない寺社は次々と潰していった。また、百姓に対しては年貢を厳しく取り立てる重税を行い、家臣に対しても冷酷で残忍な態度で当たることが少なくなかった。さらに実子に恵まれず、養子として豊祐を迎えていたが、実子の頼利が生まれると末子として事実上、廃嫡に追い込んだりしている。

 

承応4年(1655年)3月20日、参勤交代で乗船中に病気に倒れて死去した。享年53。ただし、日頃から忠頼につらい仕打ちを受けて耐えかねていた小姓の兄弟が忠頼を恨み、忠頼が洗顔中に背後から斬殺したという逸話も残っている。

 跡を長男の頼利が継いだ。

 

 


久留米藩三代藩主 有馬 頼利(ありま よりとし)

時代 江戸時代前期

生誕 承応元年(1652年)

 

死没 寛文8年6月24日(1668年8月1日)

 

有馬 頼利(ありま よりとし)は、筑後久留米藩の第3代藩主。久留米藩有馬家4代。

 

生涯

承応元年(1652年)、第2代藩主・有馬忠頼の長男として生まれる。承応4年(1655年)に父が死去したため、家督を継いだ。寛文6年(1666年)に従四位下、玄蕃頭に叙任する。戦前、修身の教科書に掲載された長野五庄屋による大石堰・長野水道の建設工事は、この頼利の時代の出来事である。

 

藩政においては「仁厚憐血」で学問を好み、家臣団からの信望も厚かったとされているが、寛文8年(1668年)6月24日に死去した。享年17。嗣子がなく、弟の頼元が養子となって跡を継いだ。

 

毒殺説

この若すぎる死には毒殺説もあり、この説に従うならば、頼利は承応4年(1655年)に父と共に船内で殺された。しかし忠頼の実子は次男の頼元しか残されておらず、しかも生まれたばかりの幼児である。このため、摂津有馬家の改易を恐れた家臣団が頼利によく似た子供を頼利であるとして身代わりに擁立したものであった(一説に領内にあった大庄屋の息子だったともされている)。しかし頼元が成長したため、家臣団が邪魔になった頼利を殺害したのだとされている。

 


久留米藩四代藩主 有馬 頼元(ありま よりもと)

時代 江戸時代前期 - 中期

生誕 承応3年2月25日(1654年4月12日)

死没 宝永2年7月20日(1705年9月7日)

 

有馬 頼元(ありま よりもと)は、筑後久留米藩の第4代藩主。久留米藩有馬家5代。

 

承応3年(1654年)2月25日、第2代藩主・有馬忠頼の次男として生まれる。寛文8年(1668年)に兄で第3代藩主であった有馬頼利が死去したため、その養子として家督を継ぎ、従四位下・中務大輔に叙位・任官される。このとき、父の養子で頼元の養弟に当たる有馬豊祐に1万石を分知して松崎藩を立藩させている。

 

藩政では、新田開発や治水工事に尽力した。しかし凶作や暴風雨が相次いで飢饉が連年のように起こり、藩の財政が悪化して家臣から上米を行なったり、元禄15年(1702年)からは年貢増徴を行なっている。元禄8年(1695年)に侍従に遷任された。

 

宝永2年(1705年)7月20日に死去した。享年52。跡を長男・頼旨が継いだ。

 

 


久留米藩五代藩主 有馬 頼旨(ありま よりむね)

時代 江戸時代前期 - 中期

生誕 貞享2年6月3日(1685年7月4日)

死没 宝永3年4月8日(1706年5月19日)

 

 

有馬 頼旨(ありま よりむね)は、筑後久留米藩の第5代藩主。久留米藩有馬家6代。

  

第4代藩主・有馬頼元の次男。母は小野氏。生涯独身で、正室・側室はなし。

父の死後に家督を継ぐが、翌年 宝永3年(1706年)4月8日に22歳で病死した。子はなく、末期養子の則維が跡を継いだ。

 

 


久留米藩六代藩主 有馬 則維(ありま のりふさ)

時代 江戸時代中期

生誕 延宝2年3月3日(1674年4月8日)

死没 元文3年4月1日(1738年5月19日)

 

 

有馬 則維(ありま のりふさ)は、筑後久留米藩の第6代藩主。久留米藩有馬家7代。

 

延宝2年(1674年)、旗本石野則員の五男として生まれる。石野氏・有馬氏はともに赤松氏の庶流であり、久留米有馬家の祖・有馬則頼の娘は石野氏満(赤松氏満)に嫁いでいる。則維は氏満の玄孫であり、有馬則頼の外来孫にあたる。

 

貞享元年(1684年)、旗本・有馬則故(御使番3500石。則頼の孫)の養子となる。元禄5年(1692年)10月28日、第5代将軍・徳川綱吉に御目見する。

 

宝永3年(1706年)4月、久留米藩主・有馬頼旨の末期養子となり、5月2日に正式に遺領を継承する。当初、久留米藩有馬家では則維の次男・大二郎を養嗣子に迎えることを考えていたものの、幕府の指示により則維に改めたようである。宝永3年(1706年)12月19日、従四位下玄蕃頭に叙任する。後に侍従に任官する。正徳3年(1713年)4月12日、初めてお国入りする許可を得る。

 

藩主となってからは改革に努めた。当時の藩は財政が悪化しており、則維は役人の整理や実力による官吏の登用や倹約によって財政を立て直そうとした。また、家老の合議体制を弱め、藩主の実権を強化した。

 

享保14年(1729年)7月6日、隠居して四男の頼徸に家督を譲る。元文3年(1738年)4月1日死去、享年65。

 


久留米藩七代藩主 有馬 頼徸(ありま よりゆき)

時代 江戸時代中期

生誕 正徳4年11月25日(1714年12月31日)

死没 天明3年11月23日(1783年12月16日)

 

 

有馬 頼徸(ありま よりゆき)は、江戸時代中期の大名・数学者(和算家)。筑後国久留米藩の第7代藩主。久留米藩有馬家8代。

 

数学者としては関流算術を修め、当時最高水準の和算書『拾璣算法』を著した「算学大名」として著名である。一方、為政者としては久留米藩歴代中最長の治世(54年)を保ち、窮民救済などに意を払ったものの、大規模な一揆も発生しており、平坦なものではなかった。

 

 

正徳4年11月25日(1714年12月31日)第6代藩主・有馬則維の四男として生まれる。

 

享保14年(1729年)、父の隠居により16歳で家督を継ぐ。しかし若年のため、元文2年(1737年)までは重臣が藩政を担った。頼徸が政務を執り始めたこの年、久留米藩で飢饉が起こる。頼徸は領民を救うため、救済金・救済米を施した。広く優れた意見を求め、徳川吉宗に倣って目安箱を設置し、庶民の娯楽として猿楽などの興行も奨励した。

 

当時、九州の各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発していた。久留米藩でも頼徸の善政にもかかわらず発生してしまう。頼徸はこれに対して一揆側の首謀者全員に加え、藩の責任者である家老の稲次因幡・有馬石見らも処刑するという厳しさを見せた。一方でこれらを慰めるために五穀神社祭礼を行なっている。

天明3年11月23日(1783年12月16日)70歳で死去した。跡を長男・頼貴が継いだ。

 

学問藩主として

頼徸は有職故実や様々な法令の知識に優れており、学問にも長けていた。特に頼徸が優れていたのは和算であり、関流の教えを継ぐ山路主住に師事してこれを学んだ。それまで52桁しか算出されていなかった円周率をさらに30桁算出し、小数の計算まで成立させた。明和6年(1769年)には豊田文景の筆名で『拾璣算法』5巻を著した。これは関孝和の算法をさらに研究し、進めた成果をまとめたものである。

 

評価

幕府からその才能を認められて江戸は増上寺の御火消役に任じられると共に、官位もそれまでの歴代藩主より上の左少将に叙任された。また将軍が狩猟で仕留めた鶴を拝領できる「国鶴下賜」を3度も受けている。これは徳川御三家や伊達家・島津家・加賀前田家などの大藩しか賜れず、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受けた。

 

頼徸の治世は54年の長きにわたり、また頼徸自身が優れた藩主だったこともあって、久留米藩の藩政は比較的安定した。その治績から頼徸は久留米藩の吉宗と賞賛されるに至った。また頼徸と同時期の教養人、新発田藩の溝口直温、松江藩の松平宗衍と並んで風流三大名と称される。

 

・窮民の救済、荒地の開拓、武芸稽古所の設立などに尽くした。

・山路主住に関流算学をまなび、豊田文景の筆名による「拾璣算法」を初め多くの著作をのこした。

 

 


久留米藩八代藩主 有馬 頼貴(ありま よりたか)

時代 江戸時代中期 - 後期

生誕 延享3年4月2日(1746年5月21日)

死没 文化9年2月3日(1812年3月15日)

 

 

有馬 頼貴(ありま よりたか)は、筑後久留米藩の第8代藩主。久留米藩有馬家9代。

 

藩校・明善堂を創設するなど、久留米藩の文運興隆に尽力したが、その一方で趣味の犬や相撲に傾倒、小野川才助らを抱えた。華美な大名火消は江戸で知られ、巷説「有馬の猫騒動」の題材にもされた。

 

生涯

延享3年(1746年)4月2日、第7代藩主・有馬頼徸の長男として生まれる。宝暦8年(1758年)11月15日に将軍徳川家重に初謁、12月18日に従四位下・上総介に叙位・任官される。天明元年(1781年)に侍従に遷任。

 

天明3年(1783年)に父が死去したため、天明4年(1784年)1月23日に家督を継いだ。天明4年(1784年)閏正月に中務大輔にすすむ。

 

当時の久留米藩は財政難に悩まされていた。ところが頼貴は相撲を好んで多くの力士を招いては相撲を行ない、さらに犬をも好んで日本全国はもちろん、オランダからも犬の輸入を積極的に行い財政難に拍車をかけた。このため、家臣の上米を増徴し、さらに減俸したり家臣の数を減らしたりして対処している。しかし幕府からの手伝い普請や公役などによる支出もあって、財政難は解消されることはなかった。

 

寛政8年(1796年)に藩校・明善堂を創設し、藩士教育に尽力している。文化元年(1804年)に左少将に遷任された。文化9年(1812年)2月3日に死去した。享年67。

 

嫡子だった三男・頼端は早世していたため、その長男の頼徳が跡を継いだ。

 

 

・藩校明善堂を創設し、藩士教育に尽力


久留米藩九代藩主 有馬 頼徳(ありま よりのり)

時代 江戸時代後期

生誕 寛政9年6月22日(1797年7月16日)

死没 天保15年4月3日(1844年5月19日)

 

有馬 頼徳(ありま よりのり)は、筑後久留米藩の第9代藩主。久留米藩有馬家10代。

 

生涯

寛政9年(1797年)6月22日、久留米藩嫡子・有馬頼端(第8代藩主・頼貴の三男)の長男として生まれる。頼瑞は頼貴の世子だったが早世したため、頼徳が祖父頼貴から世子に指名され、文化7年(1810年)には従四位下・侍従・上総介に叙位・任官された。文化9年(1812年)に祖父が死去したため家督を継ぎ、玄蕃頭に遷任される。

 

しかし財政難のため、就任早々の幕府による関東河川の手伝い普請で領民に臨時税1192貫を課したり、文化13年(1816年)には経費を3割縮減した緊縮財政や家中からの米献納を命じたりして、財政改革に取り組んだ。一方で、「月船」「水鴎」といった号を持ち、自らの趣味に没頭した。文政2年(1819年)から、久留米城内に柳原御鷹場を作り始め、さらに能楽を何度も開くなどして財政をさらに悪化させた。このため、文政6年(1823年)には江戸からの帰国中に旅費不足に陥り、急遽国許の大庄屋中から5000両を送金させる事態に陥る。翌文政7年(1824年)から、役所整理などの経費節減による財政改革を開始したが、同年から文政11年(1828年)まで毎年洪水または不作に見舞われるという不運も重なった。しかも、こうした中で文政8年(1825年)に柳原の庭園が完成した際には、『柳原八景詩歌』を編纂させている。文政10年(1827年)からは御用金を取り立て、文政11年には上米の増額と万事3か年の省略を命ずるなどしたが、借金はさらに膨れ上がり、天保2年(1831年)には人別銀17446両を徴収した。こうした過酷な取り立てをきっかけに、天保3年(1832年)からは亀王組による国中を巻き込む一揆が起こる有様だったが、同年には場内に焼物窯を開き、柳原焼と称して写し物の製作をさせるなど、趣味への出費が減ることはなかった。

 

天保2年(1831年)に左少将に遷任される。晩年の天保9年(1838年)には大洪水で大被害を受けたにもかかわらず、諸国巡見使の接待に1万両を費やし、さらなる財政悪化のために家臣へ増上米を命じた。翌天保10年(1839年)8月には、江戸城西ノ丸の普請を命じられ、10月にはとうとう柳原鷹場を取り壊した。天保15年(1844年)4月3日に江戸で死去した。享年48。跡を四男の頼永が継いだ。

 

 

・藩の財政困窮のため、米切手が不渡りとなりその責任を幕府に訴えられた。

・また大庄屋層に依存した財政改革で、天保3年亀王組一揆がおきた。

 


久留米藩十代藩主 有馬 頼永(ありま よりとう)

時代 江戸時代後期

生誕 文政5年3月24日(1822年5月15日)

 

死没 弘化3年7月3日(1846年8月24日)

 

有馬 頼永(ありま よりとう)は、筑後久留米藩の第10代藩主。久留米藩有馬家11代。

 

生涯

文政5年(1822年)3月24日、第9代藩主・有馬頼徳の四男として生まれる。文政9年(1826年)に世子に指名された。天保5年(1834年)に従四位下・侍従・上総介に叙位・任官される。天保13年(1842年)に筑後守に遷任された。幼少時から聡明で、特に西洋砲術に興味を示し、藩士にも奨励したといわれる。天保15年(1844年)、父の死去により家督を継いだ。

 

藩の財政難を再建するため、頼永は積極的な藩政改革に乗り出した。5年間の倹約による緊縮財政、綱紀粛正、軍制の西洋近代化、外国情勢の入手、海防の強化、有能な人材登用などがそれである。しかし改革を始めた矢先に尿血症(腎臓結核)に倒れ、以後は病に倒れて改革を思うように推し進めることもできず、弘化3年(1846年)7月3日に死去した。享年25。跡を異母弟で養子の頼咸が継いだ。

 

暗愚な藩主が多かった久留米藩の中で、頼永だけは自ら藩政改革を推し進めたことにより、歴代藩主の中でも名君として評価されている。しかし在任2年で若死にしたために、改革の効果は現れることもなく、後継者の頼咸の代には彼が見出した人材がことごとく自滅していくことになる。

 

・外国船来航にそなえ、軍備のため大倹約を号令。

・藩士に江戸で西洋砲術をまなばせ、兵制改革をすすめた。

・詩文集に「思艱斎遺稿」。

 


久留米藩十一代藩主 有馬 頼咸(ありま よりしげ)

時代 江戸時代後期(幕末) - 明治

生誕 文政11年7月17日(1828年8月27日)

死没 明治14年(1881年)5月21日

 

 

有馬 頼咸(ありま よりしげ)は、筑後久留米藩の第11代(最後)の藩主。久留米藩有馬家12代。

 

幕末期、久留米藩主としての時期の諱は慶頼(よしより)であるが、本項の記述では明治元年(1868年)改名以後の頼咸で統一する。

 

生涯

生い立ち

文政11年(1828年)7月17日、第9代藩主・有馬頼徳の七男として、久留米城内に生まれる。

 

弘化3年(1846年)、異母兄である第10代藩主・頼永が重篤になったため、その養子となる。頼永の死にともない20歳で家督を継ぎ、12代将軍・徳川家慶から偏諱を受けて慶頼と改名した。家督継承に際して従四位下・侍従・中務大輔に叙位・任官された。なお、後の安政6年(1859年)に左少将に遷任され、慶応4年(1868年)に左中将に遷任される。

 

頼永の後継については、聡明とされた弟の富之丞(後に武蔵川越藩松平家を継ぎ松平直克と改名)を擁立する動きもあった。久留米藩では水戸学(天保学)を奉じるグループ「天保学連」が頼永に起用されて藩政に影響を及ぼしていたが、天保学連の若手で頼永に近侍していた村上量弘(守太郎)や野崎平八らは、万一の際にまずは頼咸を立て、富之丞が15歳になったら藩主の地位を継がせるという腹案を持っていた。一方、天保学連の指導層にあたる真木保臣や木村重任(三郎)らはこれを知り、長幼の序を乱すものとして反対した。天保学連は、後継問題を契機として村上ら「内同志」グループと真木ら「外同志」グループに分裂、以後長く対立することとなった。

 

幕末の久留米藩

頼咸の治世は廃藩置県まで26年間続くが、この間は藩政をめぐり家臣団の抗争が絶えず、幕末という情勢の下で尊王・佐幕と結びついて激しく対立した。頼永によって登用された天保学連と、有馬昌長(監物)ら門閥派との対立に加え、天保学連も先述の後継問題から分裂し、真木保臣ら「外同志」は尊王攘夷を主張し、村上量弘ら「内同志」は公武合体を主張するなど思想的も隔たりをみせ、抗争を繰り広げることになる。

 

頼咸は、将軍家慶の養女・精姫(有栖川宮韶仁親王の娘、明治維新後に名を韶子に復す)を正室に迎えるため、婚儀・御殿新築に巨額の資金供出を行い、財政難に拍車がかかった。嘉永3年(1850年)6月14日、江戸藩邸において、主君に奢侈を薦めたとして村上が参政馬淵貢(外同志)に刃傷に及び、居合わせた他の家老によって村上が斬殺されるという事件が発生する[3]。

 

翌嘉永4年(1851年)4月29日、初めて久留米に入部した頼咸に対して「外同志」は藩政改革を提言するが、聞き入れられることはなかった。翌嘉永5年(1852年)閏2月には「外同志」の家老脇・稲次正訓(因幡)が頼咸に対して「内同志」藩政指導部に主君廃立の陰謀があることを申し立て、頼咸は有馬昌長ら藩政指導部を捕縛・閉門処分を下すが[3]、陰謀の証拠は発見されず、稲次による讒言であると判断され尊王攘夷派は失脚、稲次は改易(後に自刃)、指導者である真木保臣が蟄居させられるなど弾圧を受けた(嘉永の大獄)。

 

疑獄事件を経て久留米藩政は門閥の昌長や村上の流れを汲む不破正寛(美作)・今井栄(義敬)ら佐幕派によって動かされることになり、安政6年(1859年)には不破を明善堂総督に任じ、藩校の改革を行った。また今井栄の提言により久留米藩は攘夷路線から開明路線に転換し、元治元年(1864年)からは開成方の創設、国産商品の奨励、洋式軍制改革を中心とした藩政改革が行なわれることとなった。久留米藩は「雄飛丸」以下7隻もの蒸気船・洋式帆船を買い入れ、筑後川河口部の若津港(現:大川市)を軍港として、諸藩では有数の西洋式海軍を創設した。

 

一方、嘉永の大獄後におこなわれた尊王攘夷派の蟄居処分は約10年に及ぶことになる。文久3年(1863年)には蟄居先を脱走した真木を始め尊王攘夷派の志士らは捕えられ、処刑が行われようとする所、長州藩や中山忠光らの交渉によって赦免された。真木らは京都に活動の中心を移すことになったが、八月十八日の政変で京都を追われ、翌元治元年(1864年)に巻き返しを図り禁門の変を起こし敗死する。

 

久留米藩難事件

大政奉還後、尊王攘夷派は勢力を盛り返す。明治元年(1868年)1月には参政の不破正寛が小河真文(吉右衛門)ら尊王攘夷派に暗殺、同年2月には尊王攘夷派の水野正名(稲次正訓の兄)が参政として政権を委任されることとなった。これにともなって佐幕派が捕えられ、有馬昌長らは幽閉、今井栄ら10名は切腹させられた。開化政策を評価する立場から「明治二年殉難十志士」として顕彰される。

 

久留米藩は「応変隊」を組織し、戊辰戦争では新政府側で出兵している。8月、慶頼は頼咸に改名した。明治2年(1869年)には版籍奉還により頼咸は久留米藩知事に任命され、水野正名が大参事となった。

 

明治3年(1870年)9月、二卿事件、久留米藩難事件が起こり、明治4年(1871年)3月10日に東京の久留米藩邸が政府に接収された。藩知事の頼咸は弾正台の取り調べを受け、謹慎が命じられた。

 

晩年

明治4年(1871年)7月、廃藩置県により藩知事を免官された。同月、華族に列する。

 

明治7年(1875年)家督を有馬頼匡に譲って隠居する。明治14年(1881年)5月21日死去。享年54。

 

評価

戸田乾吉『久留米小史』(1894年)は頼咸の治世について、軍制改革や海軍創設を評価しつつも、「一国分党、甲起き、乙仆れ、盛衰消長、その禍ほとんど三十年に及べり。辛未の藩難に至り、人材蕩尽し、一藩衰亡の姿を成せり」と評している[5]。尊王攘夷派の真木保臣・水野正名ら、あるいは佐幕開明派の今井栄・不破正寛ら、それぞれに有為な人材がありながらも藩内抗争の中で枯渇させた点に批判が寄せられる。藩主主導の改革をおこない名君として称揚される異母兄・頼永と比較され、藩政を顧みず遊興にふけった暗愚な藩主と見られることもある。

 

頼咸は砲術に関心を持ち、鳥居流ほか諸流派を研究した。慶応3年(1867年)には『千歳流伝書』を著し、自ら千歳流砲術を創始した。軍制改革の一環として藩内全ての砲術を千歳流に統一し、他の流派は捨てさせた。

 

また、教育に関心を示した人物である。明治5年(1873年)には「報国学社」(通称「有馬学校」「有馬私学校」)を開設し、5年ほど存続した。また、東京都中央区にある中央区立有馬小学校は、明治8年(1876年)に頼咸の寄付によって創立されたため、その名がある。

 

 

[1828~1881]幕末から明治時代の大名。有馬頼徳の子。弘化3年兄頼永の跡をつぎ、筑後久留米藩主有馬家11代となる。殖産興業の奨励や近代的軍備の導入などをおこなう。明治4年大楽源太郎らの藩内隠匿に関し、新政府より謹慎処分をうけた。初名は慶頼。号は対鴎。