一石一字の塔と有馬藩主

 

東林寺天満宮の一石一字塔(いっこくいちじのとう)は、久留米・有馬藩の七代当主である有馬頼徸(よりゆき)公(1714~1783)の生母盛徳院の志を奉じて建立された石塔です。

 

塔下に頼徸の武運長久と国家安泰を祈念して東林寺の僧徒二百余名が、大乗妙典を一石に一字づつ書いて埋めていました。

 

一石一字の一部は現在も当天満宮に保存されています。

 

 


久留米藩七代藩主 有馬 頼徸(ありま よりゆき)とは

 

 

有馬藩の七代当主である有馬 頼徸(ありま よりゆき)公は、江戸時代中期の大名であり、また学問に秀で、当時の著名な数学者(和算家)でした。

 

数学者としては関流算術[1]を修め、当時最高水準の和算書『拾璣算法』を著しました。

 

一方、為政者としては久留米藩歴代中最長の治世(54年)を保ち、窮民救済などに意を払ったものの、大規模な一揆も発生しており、平坦なものではありませんでした。

 

 

頼徸(よりゆき)公は、正徳4年11月25日(1714年12月31日)に第6代藩主・有馬則維の四男として生まれます。

 

享保14年(1729年)に父の隠居により16歳で家督を継ぎましたが、若年のため、元文2年(1737年)までは重臣が藩政を担いました。頼徸が政務を執り始めたこの年、久留米藩で飢饉が起きます。

 

頼徸は領民を救うため、救済金・救済米を施し、広く優れた意見を求め、徳川吉宗に倣って目安箱を設置し、庶民の娯楽として猿楽などの興行も奨励しました。

 

当時、九州の各藩で飢饉が起こり、それによって百姓一揆が頻発しており、久留米藩でも頼徸の善政にもかかわらず一揆が発生していました。

 

頼徸はこれに対して一揆側の首謀者全員に加え、藩の責任者である家老の稲次因幡・有馬石見らも処刑するという厳しさを見せました。一方でこれらを慰めるために五穀神社にて祭礼を行なっています。

 

天明3年11月23日(1783年12月16日)に70歳で死去。跡を長男・頼貴が継ぎました。

 

 

学問藩主として

頼徸は有職故実や様々な法令の知識に優れており、学問にも長けていました。特に頼徸が優れていたのは和算であり、関流の教えを継ぐ山路主住に師事してこれを学びました。それまで52桁しか算出されていなかった円周率をさらに30桁算出し、小数の計算まで成立させました。明和6年(1769年)には豊田文景の筆名で『拾璣算法』5巻を著しました。これは関孝和の算法をさらに研究し、進めた成果をまとめたものです。

 

 

頼徸公の評価

幕府からその才能を認められて江戸は増上寺の御火消役に任じられると共に、官位もそれまでの歴代藩主より上の左少将に叙任されました。また将軍が狩猟で仕留めた鶴を拝領できる「国鶴下賜」を3度も受けています。これは徳川御三家や伊達家・島津家・加賀前田家などの大藩しか賜れず、有馬氏は頼徸の時代に大大名と肩を並べる厚遇を受けたのです。

 

頼徸の治世は54年の長きにわたり、また頼徸自身が優れた藩主だったこともあって、久留米藩の藩政は比較的安定しました。その治績から頼徸は久留米藩の吉宗と賞賛されるに至りました。また頼徸と同時期の教養人、新発田藩の溝口直温、松江藩の松平宗衍と並んで風流三大名と称されます。

 

 

 

・窮民の救済、荒地の開拓、武芸稽古所の設立などに尽くした。

・山路主住に関流算学をまなび、豊田文景の筆名による「拾璣算法」を初め多くの著作をのこした。

 

 時代 江戸時代中期

生誕 正徳4年11月25日(1714年12月31日)

死没 天明3年11月23日(1783年12月16日)

 

[1]関流算術とは

江戸時代の関流和算(せきりゅうわさん)

江戸時代に発達した日本独自の数学を和算(わさん)といいます。日本ではすでに飛鳥(あすか)時代の頃に中国から数学が導入されましたが、盛んにはなりませんでした。その後、戦国時代から江戸時代初期にかけて、築城(ちくじょう)・土木普請(どぼくふしん)・検地(けんち)・経済の発展などにより計算の必要が増し、中国の算書(さんしょ)の影響をもとにして和算(わさん)が発達します。この江戸時代に発達した和算の創始者ともいうべき数学者が関孝和(せきたかかず)です。関孝和が考案した和算は、江戸時代前期に盛んとなり、関流和算(せきりゅうわさん)とよばれました。