神道の世界観~神社から見えてくる日本人の歴史~

 

1 神道とは公的には、

「神道は、教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などに基づくアニミズム的・祖霊崇拝的な日本の民族宗教である。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。伝統的な民俗信仰・自然信仰・祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。」

 

と定義されています。

 

上記のとおり、教祖もおらず、正典もなく、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『先代旧事本紀』、『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされています。

 

 

神道とは、

⑴ 森羅万象に神が宿る、宿っていると考えます。
気象、地理地形等の自然現象に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認めます。いわゆる精霊と言った方が現代人には分かりやすいです。それが「八百万の神々」です。

 

⑵ 生前の人物を、その没後、神として祀ります。
人間も死後は神になるという考え方で、一族の先祖を神様(祖霊崇拝、氏神信仰)とし、また社会的に突出した人や、地域社会に貢献した人を神様として祀り、逆に国家に反逆し戦乱を起こしたり、不遇な晩年を過ごした人が死後怨霊(平将門、菅原道真など)として祟りをなす人も神様とし、これを鎮めることになります。

 

ただし、神様同士が相争うことはいたしません。他の宗教には他の教えを邪教としたり、他の宗教の信者は奴隷にしても良いなどということは一切ありません。神道の神々の皆様はとても平和的で、1年1回の神無月には一堂に集まられ話し合いをもたれるとされるほどです。

 

⑶ これらが奈良時代仏教信仰と混淆し一つの宗教体系として再構成される神仏習合を生むことになります。

 

⑷ まさに成り立ちそのものが複合的です。

 

 

2 仏教では宗教活動として仏教では読経、キリスト教では説教を重視します。仏教でもキリスト教でも経典に全て書いてある立場ですから、説教や読経になります。
  

しかし、神社では、そうなりません。そもそも神道の神様とは、自然そのものであったり、精霊であったり、ご先祖様であるのですから、自然とその神羅万象を感じ取り、その中で人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節して行き、生活する為の知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りた時や何かやって貰った時などにはお礼をしたりするのが、神道の神様なのです。神道の神様は、とても身近な存在で、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」なのです。

 

従って、神職の仕事とは、氏子、信者のお願いや感謝の気持ちを神様にお伝えすることなのです。お祭りは、その氏子、信者のお願い事や感謝の気持ちを神様に丁寧にお伝えするため、儀式として行われる信仰行為、宗教活動そのものなのであって、神職にとって自分自身の修行なのです。

 

 

3 神道は、このようは宗教ですから、精霊が集い、神様との接点である神社は清浄に保たなければなりません。
神社という清浄な空間を守るために、掃き清めることも重要な宗教活動です。神職は掃除は作業ではないと考えております。
まさに神社を掃き清めるという宗教活動があることが、神道の宗教としての特質であることは既に述べたことから分かっていただけると思います。世界の他の宗教にはこのような活動がみられませんが、掃除こそが神道の宗教活動の特質を示しております。

 


4 神道の教えの特色は穢れ(けがれ)からの守りです。
古来の日本から、疫病やウイルスの侵入を止めなければならないという大切な経験が穢れを防ぐという神道の教えになっているのです。参拝の前に手を水で浄める、水浴するという神道の行為が、例えばコロナ対策にどれだけ手洗いとして励行されているかを考えていただければ、分かっていただけると思います。