<広報くるめ>【シリーズ】久留米入城400年モノ語り6

広報くるめ(福岡県久留米市)

 

令和3年4月1日号

 

■武士の末裔・坂本繁二郎

久留米市内に残る唯一の武家屋敷

久留米城の南西部(現在の京町)は、京隈小路と呼ばれ上・中級武士の武家屋敷が立ち並んでいました。一軒あたりの敷地の広さは約500坪。延宝4(1676)年には、135軒に達し、京隈侍屋敷が完成しました。洋画家・坂本繁二郎の生家もこの一角にありました。今も久留米市内に唯一残る武家屋敷で市指定有形文化財です。

坂本家は、有馬豊氏の前にこの地を治めていた田中吉政の重臣で、田中家の断絶後は、有馬家に仕えます。繁二郎の祖父・与八郎は、9代・頼徳、10代・頼永、11代・頼咸の近侍でした。頼咸と精姫の婚姻では、江戸にある新御殿の建築工事も担いました。与八郎は、ペリー来航を伝える瓦版や江戸の久留米藩邸の前を通るロシア人を描いた手紙を家族に送っています。

 

■受け継がれた画の才能

繁二郎の父・金三郎は、16歳で江戸幕府の海軍奉行を勤める勝麟太郎(後の勝海舟)に弟子入りし、造船術を学びます。明治維新の混乱で、活躍する場がなくなった金三郎は、おきあげの下絵などを描いて生活をしていました。

勝海舟にあやかり麟太郎と名付けられた繁二郎の兄は、鉱山技師になるため旧制第三高等学校(現在の京都大学)に進学しますが、病気のため22歳の若さで亡くなります。18歳で戸主となった繁二郎は、図画の代用教員になり家計を支えます。この時の教え子が、ブリヂストン創業者・石橋正二郎です。2人の出会いが、後の久留米市美術館の誕生につながっていきます。

 

■久留米歴代藩主

初代:豊氏(とようじ)

二代:忠頼(ただより)

三代:頼利(よりとし)

四代:頼元(よりもと)

五代:頼旨(よりむね)

六代:則維(のりふさ)

七代:頼ゆき(よりゆき)

八代:頼貴(よりたか)

九代:頼徳(よりのり)今回の「モノ語り」と関わる藩主

十代:頼永(よりとお)今回の「モノ語り」と関わる藩主

十一代:頼咸(よりしげ)今回の「モノ語り」と関わる藩主

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