エゾリスと戯れる、旭川市の上川神社

 

上川神社は、旭川市内を望む丘、「神楽岡」に鎮座しています。神社を含む神楽岡公園は、開拓以前の原初の森の姿を保ち、面積は約44.5haと同規模の都市として市街中心部にこれだけの森林が残されているところは なかなかありません。

 

創祀当初は現在の旭川駅付近、次いで現旭川市役所付近、宮下21丁目と市街の発展に伴い鎮座地が移り、大正13年には現鎮座地へと移転、今に至ります。 この「神楽岡」という地はかつては、天皇陛下のお住まいの皇居以外の宮殿である「離宮」の建設計画があった場所でした。

 

旭川のまち作りに力を尽くされた先人達は、明治26年7月上川地方開拓守護・旭川の鎮守として、義経台と呼ばれた現在の旭川 駅付近の高台(現在の宮下通4丁目から7丁目)に天照皇大御神をお祀りしました。鉄道の設置やまちの発展にともない、明治31年に神社を6・7条通8丁目に、同35年宮下通21丁目にお移しし、その後、御祭神に大己貴大神・少彦名大神を 大正13年6月6日神々が鎮まる適地として、かつて上川離宮建設が決定された神楽岡に神社をお移ししました。

 

 

 

 

 

 

 

市民氏子の年間を通じての参拝はもとより、皇族の御参拝もあり昭和4年に賀陽宮恒憲王殿下、昭和八年に閑院宮春仁王殿下、李王垠殿下の御参拝があり、昭和11年9月26日には天皇陛下が旭川に行幸の際、御使徳大寺侍従をつかわされ御幣帛を奠じ御拝を賜りました。昭和43年には御鎮座75周年の記念事業にあたり、伊勢神宮より昭和4年第58回式年遷宮御調進の御神宝(御鏡・御鉾・御楯)の御下附を戴きました。

 

平成4年右座の御祭神に岩村家御参列のもとに岩村通俊命合祀祭・御創祀百年祭を斎行しました。右座には北海道開拓、上川地方、旭川の発展に特にご功労のある方々を御祭神としてお祀りしています。

 

 

美しい神明造りの社殿です。

お参りをしようと拝殿の前まで進んでいきますと、前を突然エゾリスが横切っていきました。

 

 

 

参道を歩いていると、所々に鳥かごのようなものが設置されていました。

近づいてみると、そこには、、

 

とてもかわいいエゾリスが出迎えてくれました。カメラを向けてもおびえることなく、興味津々なご様子。

またいつか是非お参りしたいです。

 

有難うございました。

 

 


上川神社(かみかわじんじゃ)

〒078-8327 北海道旭川市神楽岡公園2

 

由緒

 

明治2年5月、函館に立てこもる旧幕府軍が降伏し、新政府は同7月開拓使を置き北海道の開拓と整備に乗り出します。

当時北海道の開発について、政府また開拓使では札幌を開拓の中心に据え、船などの交通の利便性や北方への防備を念頭にまずは海岸線の開拓を進めるという方針で広大な内陸部の開発は手付かずのままでした。

 

  明治5年、開拓使判官の岩村通俊(土佐出身)は、北海道の開発は内陸部より進めてそれを四方へ広げるべきと考え、北海道のほぼ中心にあたる上川の開発こそ北海道開発の急務であるとし、部下の高畑利宜に上川の視察を命じます。三ヶ月にわたる調査の後、高畑は上川が土地肥沃かつ平坦で耕作牧畜にも適し森林にも恵まれており、一刻も早く開発すべきと詳細な報告書を提出して、岩村は上川開発の思いを深めます。

 

 同15年会計検査院長であった岩村は北海道を視察し、さらに以前の考えを深め、時の太政大臣三條實美に「奠北京於北海道上川議」という建議書を提出しました。これは離宮にとどまらず「北の京を上川に置き、開拓を勧め一大都府を開く」といういわば首都移転計画とも言うべき壮大なものでした(北京とは、西京=京都、南都=奈良、東都=東京に対する北のみやこの意)。

 

 明治18年、政府は北海道開拓を進める為、実地調査が必要として、司法大輔となっていた岩村通俊に裁判所事務視察にあわせ上川原野の調査を命じました。

  岩村は勇躍北海道へ、上川へと歩みを進め、幾多の苦労をしながら、永山武四郎屯田司令長官等と共にはじめて近文山に登り上川盆地を視察しました。その様子を岩村自身が記した「上川紀行」では、「上川盆地は石狩岳は比叡山に似、流れる川は鴨川の如くして、京都よりも更に規模が大きく、素晴らしい。ここは後日我が国の北の京となるだろう」と述べています。

 岩村は興奮を抑えられないのか、帰京する前函館の宿で「北京を上川におくの議」を草し、三條太政大臣宛に郵送します。その内容は、「以前北京を上川に建設し殖民局を置くべしと建議した。今回実際にはじめて上川の地を視察したが、その素晴らしさは聞くに倍するもので、前議を採用すべしとの思いを強くした。」と述べ、まず北海道の中心である上川を開き、それを全道に広めるべきと説きました。

 

 明治19年1月政府は北海道庁を札幌に置き、開拓等北海道に関わる事務を一元化しました。そして、その初代長官には岩村が任ぜられました。

  岩村は同年2月早速北海道へ渡り、上川開発のための必要な施策を次々と実行します。翌20年10月には再び上川へと入り近文山から視察、また神楽岡にもこのときはじめて登りました。

 

  岩村長官は上川開拓に情熱を込め精力的に進めていましたが、明治21年6月政変により黒田清隆が総理大臣となり、道庁長官から元老院議官へと追われてしまいます。