坂本八幡宮と新元号「令和」

かつて太宰府には、7世紀後半から12世紀前半にかけて地方最大の役所「大宰府」が置かれ、西海道(九州一体)の統治、対外交流の窓口、軍事防衛の拠点という重要な役割を担っていました。

 

大宰府の長官は大宰帥(だざいのそち)と呼ばれ、大伴旅人は727年ごろ大宰府へ赴任しました。大伴旅人は政治家としてだけでなく、歌人としても才を発揮した人物で、赴任した大宰府においても文人たちと交わり、山上憶良(やまのうえのおくら)らと共に優れた歌を残しました。後に「筑紫万葉歌壇」と呼ばれる華やかな万葉文化が、大宰府の地に花開いたのです。

 

天平2年(730年)正月13日、大伴旅人は自身の邸宅に大宰府や九州諸国の役人らを招いて宴を開催しました。当時、中国から渡来した大変高貴な花であった梅をテーマに歌を詠んだことから「梅花の宴」と呼ばれています。今回、元号「令和」の典拠となった文言は、この「梅花の宴」でよまれた32首の歌の序文になります。